動画ばなれ
知覚表象と想像表象、体験・認識の平板化
「動画」全盛の今、問うてみる「言葉」の意義。行過ぎた「知覚表象」の弊害、人の生の醍醐味かもしれない「想像表象」。
動画ばなれ
「動画」全盛の世間だが、私はといえば、「動画」の視聴時間は減っていっている。ちょっとした時間つぶしに「動画」がうってつけのこともあるが、重きをおくことはない。なぜというに、「動画」を視聴した後の余韻と「書物」の読後感とでは、「質」がまったく異なるからだ。喩えていえば、「動画」は筋肉に負荷を感じない運動。たいして「書物」は脳みそに心地よい負荷をかけ、筋肉ならパンプアップするような、爽快感が残る運動。
投じた時間が活用されたとの実感が「読み書き」にはある。たいして「動画」には時間の消費感だけが残ることが多い。それは「質」の問題である。内容が同じでも、原作と映像化されたものとでは「質」の違いはあきらかだ。
知覚表象と想像表象
「想像表象」に勝るものはない――但し、じゅうぶんな知覚的経験と、それらがよく練られ、解釈がある水準に達したものの想像表象にかぎられるが――。どんな俳優の演技も、実写と見紛うCGも、遠く及ばない。私にとってもっとも高次な表現に達するのは「想像表象」である。
――(例文)
冷えた土と緑の匂いが漂う、ほの暗い樹海は、むしろ昨日までの私が夢だったのだと、諭すように圧してくる。
――
私の場合、原作からの映像化は「知覚表象」となるため、まちがいなく作品の価値を下方修正する仕儀となる。例文を映像化すれば以下のようなものになろう。
一方、言葉から直行する「想像表象」は、総合性、多義性を伴う深識からの表現となる。
冷えた土と緑の匂い、ほの暗さ、樹海、これら一つひとつの想像表象が、私のたとえば深層心理(心理)、文化圏や経済的環境(社会)、神経系の特性からの感覚的差異性(身体)などから割り出される。
これらは「知覚表象」にも影響してはいるが、その度合からいって「独往(自主)の体験」とよべるものではないだろう。潜在する総合性や多義性をある程度、抑制し、知覚に傾倒しているからこそ「大根役者」といった揶揄が生じうるのだ。「想像表象」に「大根役者」は存在しない。
ましてや、時間的、空間的、物的に規格化された映像で昨日までの私を表象することなど不可能である。
あるいは、役者の「眼(知覚表象)」。たとえば原作の設定では、親もなく、スラムで育ち、麻薬カルテルの殺し屋として生きる男の「眼」を演れるはずもない、奢侈に流れた俳優が。
万象には分子には表れない霊妙な何かがある。その霊妙な何かができるだけ型崩れしないようカプセル化(encapsulate)するのにもっとも適したもの――それが万象の、解釈の容器としての「言葉」というものである。「本質」への自主的な接近を可能にするもっとも古典的なものが「言葉」なのであろう。
つまり映像化はその他大勢と似たり寄ったりの体験へのバイアスがかかっているともいえる。
「デジタル化」「効率化」とのバーターによって失われるものは何なのか、観照すべきではないだろうか。
意外にタイパがわるい動画
「タイムパフォーマンス(以下タイパ)」とは時間に対する効果「時間対効果」のことだ。たしかに、「効率」の価値が極大化した昨今、「タイパ」が謳われるのもわかる。にもかかわらず「動画」のこの盛りはおかしなものだ。
「動画」は場合によってはタイパがわるい。 文であれば1分で理解できるものが、動画だと冗長になり数分かかることもある。その冗長の理由は、たとえば
- 流行の視聴覚演出が入っているため
- 俯瞰的に捉えられる文にたいし、音読は逐次的であるため(2倍速でも文には遠く及ばない)
- 動画が一定の尺以上であることが条件になっている「広告」のため
などで、これらすべて「タイパ」をわるくするものである。
反対に、たとえばロープワークを文で説明されてもわかりにくいことこの上ない。「動画」がタイパ良しか、悪しか、都度、判断する必要があるだろう。
体験、認識の平板化
「地球平面説★1」という言葉があるが、言い得て妙だ。たしかに、動画全盛、スクリーン全盛の昨今、世人の世界認識が平面化、平板化に流れていても不思議ではない。すでに述べたように、知覚表象は潜在する総合性をある程度、抑制する。そこから、人の体験、認識の平板化が進んでいるのではないか。
報道の視聴覚情報にイワシの群れのように雷同する世間をみれば、それはあきらかだ。上述したその他大勢と似たり寄ったりの体験が極度に標準化されている。換言すれば「極度のマス社会」である。世人は知覚表象に囚われ、頭の上の蠅も追えない
知的状況に陥っているとみえる。
似たり寄ったりの人生100年時代(笑)――そんな大根役者にも劣る長命だけが取柄のイワシには、断じてなりたくないものだ。
★1 地球平面説――地球の形状が平面状・円盤状であるという可能世界論。