サムズダウン恐怖症
サムズダウン恐怖症――この記事を書くにあたっての造語だが、我ながら正鵠を射た名称だ。「サムズダウン」とは「thumbs down」、つまり親指を下に向けて否定の意をあらわすジェスチャーである。他人からの否定的評価を異常に気にし、その恐怖心が過ぎて評価以上の害を自身に被る神経症をこう名づけた。そう、これは気遣いではなく神経症の類である。
日常を蝕むサムズダウン恐怖症
世の中にはじつにさまざまな「恐怖症」がある。たとえば「階段恐怖症(bathmophobia)」。上り下りへの恐怖症ということだが、そうなると株式投資もできないのだろうか。「早口恐怖症(fast speakphobia)」なんてのもある。スキャットマン・ジョンを聴かせたらたいへんなことになりそうだ。
人は誰しも、なにか「恐怖の対象」をもっているものだが、日常生活に支障をきたさないものなら、さほど問題にならないだろう。ピーナッツバター恐怖症(peanutbutterphobia)がそうだ。買わなければいい。
昨今、私が世態にみとめる「日常を蝕む恐怖症」、それが「サムズダウン恐怖症」である。しかも、罹患率が深刻なほど高い。彼らがなぜそこまで他人からの否定的評価を気にするのか。その理由のひとつは、思うに否定的評価、低評価を論理的・体系的にとらえ考えないからではないか。言い換えれば「嫌われの科学」という視座に欠いている。
人間の関係性は統御しうるという謬見
否定されることを良しとする人は少ない。私もできれば否定されないにこしたことはないと思っている。ただしできればという但書入りだ。そうはいかない場合も承知している。しかし、「サムズダウン恐怖症」の人はそれがゆるせない。誰かに否定されるぐらいなら死んだほうがましだと言わんばかりに、否定されることに潔癖だ。
そもそも「誰にも否定されない」などナンセンスである。否、ナンセンスというより非科学的・非現実的、非理な考えである。たとえば、天然界は皮相的には弱肉強食、好悪に満ちた世界にみえる。しかし、「イエローストーン国立公園における狼の復活★1」にみるように、巨視的にはバランスの世界であるというのが実相だ。人界も天然界の一部である以上、フラクタルにこの視座をもつべきだろう。
「正規分布(正規曲線)」というものがある。ガウス分布(曲線)ともよばれ、確率や統計において、さまざまなことが当てはまる汎用的なグラフだ。物事は往々にしてそのようなありさまをとるという「相場」を表したようなもの、といったところか。
人は生をとおしてさまざまな人間関係をもつが、それらにおいても正規分布的な解釈はある程度なり立つものだ。つまり人間関係もまた、おおよそ摂理のバランスの下にあるのである。「サムズダウン恐怖症」はこの視座を欠いている。関係性は個人の意志で統御しうるという潜在的思い込み(謬見)があるのだ。
否定が明示されることへの恐怖
たとえばSNSなどで、自身のコンテンツに「下向き親指のアイコン」が殺到し、意に染まないので非表示にして隠す心理。これは「ダチョウが恐怖を感じると穴に頭を突っ込んで隠れたつもりになる」のと本質はおなじである。つまり、否定されたという事実を目に入れたくないという感情が、冷静な科学的思考に勝っている。
ここでも「群衆心理」という知識をもちこむ必要がある。メディアを介して集合した人間はすでに群衆だ。高評価と低評価が1:100の状況では、数字の暗示によって低評価をつけることのほうが妥当に感じられるのである。それらは一過性の流動的趨勢であり、時間や些末なきっかけでけろっと消える程度のものだ。
「サムズダウン恐怖症」には別の視座をもちこまなければ、神経症の堂々巡りとなる。加えるべき視座とは、誰からも否定されないなど児戯に類する空想的平和主義であると知ることだ。上述したダチョウの生態もじつは誤解であり、実際は体高を低くし、地面を伝わる音を聞いて周囲の警戒に取り組んでいる。ダチョウは冷静なのだ。
否定的評価を目の当たりにしたとき、とるべき思考回路はその事実を周囲の状況、データとしてただ知ることだ。そこにどのような意味と価値を見出すかは完全に本人の心の自由である。恐怖が神経症であればこそ、是非の思案もなくただ恐怖に陥るのである。
過敏にならず「どうでもいい」と思うこと
人間の関係性もまた摂理の下にあることは、歴史からの言葉も証左となる。
人事を尽くして天命を待つ
人間としてできるかぎりのことをして、その上は天命に任せて心を労しない。
塞翁が馬
人生は吉凶・禍福が予測できない、人智を超えたものである。
さらに「サムズダウン恐怖症」にぴったりの、パスカルのこの言葉。
人間は天使でも獣でもない。そして困ったことには、天使の真似をしようとすると、獣になってしまうことである|パスカル
天気も人気(じんき)も思うままにはならないものだと悟り、諦観とともにぼんやり眺めることだ。それを統御しようと天使のように愛想よくしたところで、傍らには媚びた獣と映ることもある。自分が公と私の平衡をはなはだ逸脱することなく、配慮して生きているという自覚。それがありさえすれば、能事足れり、後のことは天気とおなじように、なるようにまかせておけばよいのである。