言葉というものへのアイデア――
エネルギーとしての言葉

「見える化」などという児戯めいた言回しにみられる言葉の低劣化がすすむ。それら薄っぺらなコード(code)が薄っぺらな現実を表出している。昨今の映画やゲームの現実さながらのVFX(視覚効果)もつまるところコードの表出であるように。

表出の元となるコードを換言すれば「波動」である。「言葉」は「言の葉」のことだが、「言の波(動)」としての側面もある。言葉を「波動」としても捉え、現実や心への効果を考えれば、「言の波(動)」は「事の波(動)」でもあるという認識が展開する。

「クラドニ図形」というものがある。平面板の上に砂粒のような粒子をまいて板を振動させると、振動固有の幾何学的な模様が観察されるというものだ。言葉もまた空気中をはしる振動、波動であるから、物理的なエネルギーをもつ。語の違いのみならず、声帯や環境、種々の要素によって、不可視だが、さながら万華鏡のようなエネルギーの様態があるはずだ。

「言の葉」の「言の波(動)」、「事の波(動)」という側面を意識すれば、軽薄・稚拙・俗悪の類の言葉は「事」を下落させる呪詛である。

仏陀の教え「八正道」の「正語」は、言葉という結果を原因に還し調節をはかる饋還的機序に心の修錬を組み込むことのようだ。三業(身[身体]、口[言語]、意[心])はそれらが行為として因果の道理に則り結果を導くともいっている。然ればこそ、言葉から人格へのアプローチがなされるのである。

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クラドニ図形は目には見えない「波」が現象に直接的に影響しているといういい例だ。 昔の人は五感の枠外にある言葉のエネルギー的側面を知っていたのだろう。現代の言葉の扱いとは次元の異なる言葉への敬畏が文化に内蔵されていた。

言葉というものへのアイデア――
十八番の言語を磨き上げることの重要性

習得した言語の数と、知術としての言語能力とがひとしいわけではない。4ヶ国語を話す知人との会話の内容は、いつも浅薄でつまらないものだった。しかしどういうわけか、そこを勘違いする世人は多い。

社内公用語を英語にしたり、幼児期から英語を叩き込んだり、英語への対応能力としてはけっこうなことだ。しかし、それがあたかも知能の向上への接近のようにいわれているのをみれば小首をかしげる。

言語というものも他の事物同様、熟成の懐妊期間を経る。そして熟成にいたる過程は言語そのものへの取り組みではなく、思惟への取り組みにある。

つまり思惟の掘削作業にともなうかたちで言語もまた深みへと歩を進める。どれほど多言語に触れようと、思惟が事物の皮相を上滑りしているかぎり「知力」としての「言語力」は進歩しない。――あそこのバーガーのパティはレベチだよね――こんなことを10ヶ国語で言えたとて、なんになろう。品のないペダンチック(衒学的)な振舞にしかならないのである。

翻訳された書籍が良書となるかどうかは、訳者の第一言語力で決まる。それは第一言語が事物の核にまで到達可能な、強力な十八番の言語として熟成しているかどうかによる。第二、第三の言語が第一言語よりも前にでることなど滅多にみられないことだ。

この視座から見るこれからの世間はおそろしい。母語としての言語すら、こうもちんけになり果せてしまったのでは、「知性の明日は暗い」といわざるをえない。社内公用語を英語にしようが幼児期から英語を叩き込もうが、薄っぺらな知性は口先からは変えられないのである。

言葉の危機は人間の危機

これら言葉の危機をみるにつけ、人世が危機の深みにはまっているさまは至極とうぜんのなりゆきである。人間は遺伝子や言葉といった過去からの系譜の表出であり、それら言語的に解釈可能なものへの了解の上に現在と未来とをおく。物質の三態にたとえるなら、過去は固体、現在は液体、未来は気体だろう。

唯一土台となりうる過去を忘失しておいて「今を生きる」だの「未来への期待(気体)に胸をふくらませる」だの、むずかしい話だ。譜面の前を見ずして適切な譜は書き足せない。過去がなければ旋律にならないのだ。

拙論は単に言葉づかいのことをいっているのではなく「言葉が活きて人が活きる」ことをいいたいのである。

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