水槽が足りない状態(デフレ)でを抜くバルブをさらに開けば(増税)、むろんが増える見込みはない。さらに、プライマリー・バランス論は税収と一般財政支出を均衡させることだ。つまり水槽から抜いた分だけ水を足すということであれば、水槽の水量はこれからもお寒いままにしておくということか。

ちなみに、税の目的は財源の確保が第一義ではない。税の本分は物価や活動等の「調節」である。たとえば、国民の大多数をヴィーガニズム★4にしたければ、動物性由来の衣・食・その他の製品に多大な課税をする、といった「調節」。あるいは水槽の水量がインフレ上限を超えないよう、種々の課税によって水量を適正値内に保つ「調節」、といった具合だ。

ここで留意すべきことのひとつは、税として排出したが管を通してふたたび政府にもどっていないことだ。この図は水源をもつ政府と民間のあいだのの論理的流れだ。だから排出したをかき集めてもどす必要がない。

を供給してばかりいたらインフレになるというものもいるが、それでは論が粗すぎる。少しく丁寧にいえば水槽の容量を超えるようなの供給をすれば水槽が破裂する=インフレになるだろう。それは正しい。しかし、現在の状況でその心配は無用だ。〈水〉は足りないのだから、満タン(インフレ上限)までは〈水〉を入れて問題ない。

政府がこれ以上を供給すれば、子々孫々まで膨大な借金を背負わせることになるという論もある。これなど論理にたいする支離滅裂だろう。借金でが作られる論理を採用した以上、借金状態は「常態」である。それを由々しき事態とするならば、今後を一切作らず(借金を作らず)、永世ゼロ経済成長国家を目指すということか。鎖国時代でもあるまいし、国家間の葛藤と平衡を考えれば、ありえない話だ。

政府の赤字=民間の黒字というのは、貸借対照表をさわったことがあるものならば誰でもわかる、表の左右の対照性である。そこに通常の帳簿では扱うことのない水源という特殊項目が赤字側にあるのだ。その赤字側が水不足に汲々とするというのは、たとえるなら枯れない井戸をもつものの節水縛りプレイだ。プレイヤーが独自に設けた制限というほかない。

――水分は徹底してリサイクル水を使うこと。汗や小便を濾過した水で米も炊く――そんな家族があったらどうだろう。エコ家族というより、変わり者の家族ではないだろうか。

「政府」の「民間」にたいする負債を「国の借金・赤字」とよぶのも欺騙の向きがあるといわざるをえない。その「借金・赤字」は「国家の家計簿」では帳消しになるのだから、これもまた統合失調症的誤謬もしくは詐術である。「政府」と「国家」の判別もできない国民にもニヒリスティック・エコノミー(虚無的節約)を招いた責任はある。それもまた統合失調症的誤謬である。

現在、プライマリー・バランス論が正論として世間の合意を得ている。これは単に「赤字」という言葉の「イメージ」への脊髄反射だろう。無知とは常に基準をもちえず大勢に流される運動のことだ。数が根拠の正論ほど論として疑わしいものはない。

仮にMMTに潜在的欠陥があるとしよう。その場合、論法はリスクテイクとなる。「将来世代に借金を残す」というリスクと、国家が衰退・没落して「亡国(ほろびた国)を将来世代に残す」というリスク。どちらのリスクをとるのか。将来世代はどちらのリスクを望むだろうか。ここでも、現在は(時間的)全体性が失われているため、まともな議論に発展することがない。

水槽の「動き」と「量」。これがを作って増やし、出して減らせる能力をもつ自国通貨システムにおけるの管理の要諦だ。流水は腐らずという言葉もあるように、水槽を適正な水量で満たし、かつ淀まぬよう動かしつづけること。水槽にどれだけ湧水を引き、どれだけ抜いたかは二の次だろう。

要するに、国家観のある経済・財政とは「水槽デザインに取り組む経済・財政」といえる。をどの程度満たし、どのような魚や水草が美しい水槽にしたいのか。反対にを抜いて魚を酸欠にさせた水槽にしたいのか。国家観とはこの場合「国家景観」と換言することもできるだろう。経世済民や分配の観念も、大本にある全体性が前提にならざるをえないのである。

★4 ヴィーガニズム――衣食他全ての目的において、動物からの搾取、及び動物への残酷な行為の排斥に努める哲学と生き方

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部分しか顧みない偽全体論は姑息的治療に終わるか、あるいは全体のホメオスタシス(恒常性)を破綻させる。

統合失調症社会――その経済(3)
ニヒリスティック・エコノミー(虚無的節約)からの頽廃

話は変わるが、日本というのはつくづく不思議な国だと思う。コーカソイドへの劣等感なのか、何なのか分からないが、大筋ではアメリカやヨーロッパの基準をほぼ無条件によしとする。それらすべてを機械的にトレースしたがるのかと思いきや、経済的理論や軍事的理論においては独自路線を突っ走ることがある。日本人でも理解しかねる不可解さもまた、民族性なのだろうか。

20年以上にわたり、国体のネクローシス(局部的壊死)の拡大を黙殺しつづける緊縮財政。もはやカルト的ともいえる過剰な新自由主義にロックインされた観念と機制。世界のGDPに占める日本の割合の推移をみても、1995年には17.6%あったが、2010年には8.5%とほぼ半減。そして、その下降線を一顧だにせず進む現在。

さすがにここまでくると異常事態だ。なにかグローバルなアジェンダ(予定、計画)でもあるのかと疑いたくもなる。通貨発行においても主権がない「敗戦レジーム」によって「円」は占領統治されつづけているのか――財政法4条だけではない。異様な現実にたいする事実からの推論だ。

それほどまでにこの国の虚無的・自虐的態度は病的である。ちなみに私は将来「日本型スラム」が地方から本格的に台頭してくるだろうと想定している。

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全体性が失われた文明社会のなれの果てとして超格差社会があり株主資本主義がある。

統合失調症社会――自己意識への統合

嘆かわしいのは「民間」の無知である。「カネ」というおのれらの生命線にかんする巨視的関心がまるでないとみえる。上述した程度の貨幣の仕組みにかんする知識であれば、それについて書かれた本の一冊も必要ない。要点となる数ページに目をとおせば得られる程度のものである。時間にしておよそ10分といったところか。

日本人は平日でも平均して168.3分(約2.8時間、休日にはさらに約1時間増)★5もの時間、テレビを眺めるという。スキップできないCMに毎日3時間も向き合う暇があるという。なんともったいない時間の浪費か。C級映画やポルノのほうがまだ有意義だろう。

せめておのれの命運にかかわる巨細ふくめた情報に1日10分、向き合ってみてはどうだろう。年間約60時間の社会リサーチになる。それだけでも知の体系と実践に少なからず影響することだろう。それすらできないというのであれば、苦患は一人ひとりの無関心と無気力がまねいた結果だといわれても文句は言えない。為政者や資本家のせいにばかりするのは怠慢であり傲慢でもある。

都合のいい時だけ声高に民主主義をとなえ、主権をかざすのは大人気ないというものだ。せめて1日の144分の1(10分、0.7%)程度、家事や仕事の枠をでた事々を脳みその俎上に載せる、そんな思考投資が必要ではないか。

そういえば、日本人は鰯の群れといったのはアーサー・ボストンだったか。水槽の魚が水槽についてなにも知らない、ただエラに水を通すだけでは、ほんとうに魚である。

★5 参考:総務省|平成26年版 情報通信白書|主なメディアの利用時間と行為者率

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マス・メディア中毒になった世人にもニヒリスティック・エコノミー(虚無的節約)を招いた責任はある。

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