
フェイクタイガー
人ごみ、あるいはその電磁的変態であるSNS――集合体恐怖症にも似た嫌悪を感じる、その麻疹(のごときもの)。フェイクタイガーの使用期限は、もうとっくに切れている。
集合体恐怖症
工業製品など無機的な物の大量に整列された様を見れば、18世紀以降の産業革命が、実に後の人間の系譜を決定的にしたものだ、などと徒然眺めることもできる。しかし、これが有機的なものとなると、私の反応は一転する。ホームセンターの大量の製品の集合と、びっしり産み付けられた虫の卵とでは位相が異なる。
映画『エイリアン2(ALIENS)』のリプリーが火炎放射器でエイリアンの卵を焼き払うシーンを、どれだけの集合体恐怖症(トライポフォビア)★1が賞賛したことだろう。反対に、どれだけのフェミニストがエイリアン・クイーンに同情し批判を展開したのか。
★1 集合体恐怖症(トライポフォビア)――小さな穴や隆起物の集合体にたいして恐怖や嫌悪感を抱く症状。
フェイクタイガー
有機的といえば、人ごみに感じる嫌悪を集合体恐怖症の観点からいえば、人間の大量行動は得てして狂気、精神遅滞をある程度含んでいるがための忌避、防衛衝動といえるだろう。あるいは感染症や諍いのような具体的リスク。
当今、「SNS」があるが、人ごみを電磁的に変換した変態にすぎず、つまり人ごみである。場合によっては人ごみ以上に嫌悪を感じる集合体だ。意識の排泄物とでもいうべき下卑た言葉や画がムクドリの糞のごとく雨あられと降っている。マスメディアにとって代わる新たな第一権力だと信じてやまないものは、これを民主主義の新たな舞台装置だなんだと声高にさけぶが、プラットフォームの買収劇で、敢え無くしんとする、日が昇った後のムクドリのように。
民主主義の舞台装置とは大口がすぎる。時に遇えば鼠も虎になる
というが、どうやらSNSなるものも、SNS上のトレンドに遇えば鼠も虎になる装置の域をでられないようだ。1997年、初のSNS「SixDegrees.com」以来およそ30年経つが、もはやそう結論付けて問題なかろう。フェイクタイガーの使用期限は、もうとっくに切れている。
「台風で雨樋が壊れて、今はSNSどころじゃねえ」
脚立の上から快活に笑ってみせる近所のおっさんのほうが、はるかにソーシャブルな、地に足のついたパワフルな人間である。