
嘘と糞
所詮、人は身体だ。生は穢れだ。にもかかわらず、綺麗事ばかりが肩で風切るものだから、おさまりがわるい。染みひとつない真白い生など、そんなものは糞にも劣る嘘だ。
身体という野蛮
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり
人生は儚い、なんてことは遅くとも三十五にはだれでも覚ることだ。そんなことより、ややこしいのは、四十五を過ぎたあたりから、この儚い夢が頓に煩わしく、馬鹿馬鹿しく感じられてしようがないことだ。おぎゃあと生まれ、親に苦労をかけてようやっと乳離れし、ありついた飯のはずだが、今じゃ何を食うか考えるのも煩わしい。眠気を突き放すことに必死だった若き肉体も、今じゃ眠るためにあの手この手が必要だ。手が掛かりすぎるこの夢が、せめて儚くてよかったと、然う斯うしているうちに必ず終わるのだという造化の保証が保険となって、今、私は大船に乗ったように生きている、絶えない船酔いの悪心に耐えながら。
そも、「食う」ということの馬鹿馬鹿しさといったらない。食うとは、殺めることだ。「殺める」ことなしに「食う」という行為はありえない。ヴィーガンだからといって免れない。植物も、納豆菌だって命だ。命を奪い、噛み砕き、あげく糞にして放り出すという、こんな侮辱があるだろうか。おとぎ話で、神様が「おまえを糞にしてやろう」といったら、どう考えたってこれは「罰」、「仕打ち」だろう。手を合わせていただこうが、否応なしに、この身体は命を糞にしてしまう。この野蛮な身体め。生かしてもらっておいて、さいごに「ブルシット!」とか「クソヤロウ!」とやるのだ。だが、この身体こそが命、おのれにほかならない定めなのだという。馬鹿馬鹿しいといったらないじゃないか。かといって、最近の「代替肉」にも抵抗がある。殺めないが、こんどは人の小賢しさという野蛮にとって代わっただけという、食えない肉々(憎々)しさがある。
人面獣身
発泡スチレンシートに押し詰められた肉塊の、ラップ越しに流れるピンクの血汁は、自らが元は鶏であったことを、物色する腹ぼての妊婦に空しくうったえる。が、鹿の角を蜂が刺す
――妊婦はその値が平仄に合うものか、そのことだけを見つめ、訝しむ。付き添っている風采が上がらない夫も、妻にとって平仄が合わなくなった(経済的合理性に合わなくなった)とたん、おそらく肉塊と化すのであろう。およそ母性などではない、純然たる獣性がそこにある。食らい、交わる、人の営みの出来だ。やたら攻撃的な母熊との違いは、獲物を爪牙で殺める代わりにレジでカネを払う、そのことぐらいだ。妊婦は体毛も濃くなることがある。
人は身体だ。
だから蛮性を揮わずにはいられない。殺め、食らい、交わり、死んでゆく人面獣身のブルシットな存在にすぎない。謙虚とは、スポーツ選手が自らの勝因を応援してくれた人たちに負うことではない。おのれのまがうことなき穢れを知り、穢れに首まで浸かりながら、トイレは汚さぬように用を足す、この滑稽、馬鹿なりの気遣いをいう。
鶏もも肉のパックを買い、冬の夕暮方にありがちな、西の空の底にべたりと澱のように広がる灰褐色の雲に霞む夕日を一瞥し、スーパーを出た。